日本ダービー! それは競馬関係者にとって、誰もが勝ちたいレースである。その日本ダービーを4年間で3勝もしている騎手がいます。
それが今や超一流騎手になった「福永祐一騎手」なのです。
今回の記事は、福永祐一騎手の日本ダービー初制覇までの道のりを紹介していきます。
福永祐一騎手のデビュー
福永祐一騎手は、1976年12月9日に生まれ、滋賀県栗太郡(くりたぐん)栗東町で幼少期を過ごした。そして中学校時代はサッカーをしていて運動が得意の少年だった。
父は福永洋一で天才ジョッキーと呼ばれている凄腕の騎手だった。
そして、父や親せきにも競馬関係の仕事をしていた人が多いいこともあり、福永祐一は中学2年生の頃に将来は騎手になろうと心に決めた。
しかし、父の福永洋一騎手が落馬事故で大怪我をし、ジョッキーを引退した経緯があり、母に猛反対されていた。
この12期生のメンバーには、和田竜二騎手・柴田大知・未崎の双子の兄弟や今や競馬解説者で有名な細江純子などがいた。
そして1996年3月にデビューをむかえた。
デビュー初日・3月2日の中京競馬場第2レース
福永祐一は僅差の1人気・マルブツブレベストに騎乗し、なんと初騎乗で初勝利を飾った。
続く第3レースでも勝利し、なんとデビューから2連勝を飾る華々しデビューだった。
そしてデビューのこの年、通算53勝をあげ「最多勝利新人騎手」のJRA賞を獲得した。
福永祐一騎手の初めての日本ダービー挑戦
1997年、デビューから2年目の10月に福永祐一騎手は、ある一頭の馬と出会った。
それが後にダービー初挑戦で騎乗することになる「キングヘイロー」だった。
キングヘイローは、新馬戦・500万クラスのレースを連勝し、G3東スポ杯に挑戦し1人気に応え見事に勝利した。
続くG3ラジオたんぱ杯3歳Sでは2着、続く弥生賞では3着と惜しいレースが続き、皐月賞に③人気で登場した。
そして1998年6月7日、日本ダービーがやって来た。
日本ダービーでは福永祐一騎乗のキングヘイローは2人気に推されていた。日本ダービー初騎乗で、しかもG1も勝ったことがない福永祐一騎手にとって、物凄いプレッシャーがかかっていたに違いない。
競馬関係者の誰もが言う
ところがあると。
そんな特別な日本ダービーで福永祐一はキングヘイローと共に走った。しかし、レースでは今までに取ったことのない「逃げの戦法」という形でスタートを切った!
しかし結果は14着と大敗を喫してしまった。
この逃げる戦法については色々な意見が出ていたが、福永祐一騎手はレース後にこう語っている。
福永祐一騎手にとってほろ苦い経験でもあるが、とても勉強になったレースの一つになったに違いない。
福永祐一騎手の日本ダービーのその後
経験不足を認識していた福永騎手は、技術を磨きながら毎年のようにダービーで騎乗していった。そして、2000年~2006年の7年間で計6回騎乗して最高着順が4着と徐々に成績を上げていった。
毎年、日本ダービーの1週前には優駿牝馬(オークス)が同じ条件で行なわれます。
そのオークスで福永騎手は転機をむかることになる。
2004年 ダイワエルシエーロ 1着
2005年 シーザリオ 1着
2006年 フサイチパンドラ 2着
2007年 ローブデコルテ 1着
と日本ダービーと同じ条件の東京2400mというコースの乗り方を徐々に手の内に入れ始めていた。
そして、ローブデコルテでオークスを勝った次の週、福永騎手は14人気のアサクサキングスで日本ダービーに挑戦した。
アサクサキングスは14人気という低評価のなか、なんとキングヘイローと同じ戦法の「逃げ」という作戦でレースを走った。
そして最後はウオッカに抜かれたが、2着という輝かしい成績を残した。
この頃の福永祐一騎手はこう語っていた。
と、、、、。
しかし、やはり勝負の世界は厳しかった。
その後の成績はあまり良くなく、2012年には1人気に推されたワールドエースで挑戦しましたが結果4着。
その次の年は3人気のエピファネイアに騎乗し、最後の直線残り50mで先頭に立つも、外からキズナに抜かれての2着という結果になった。
この頃の福永騎手は
と語っているほど、日本ダービーは勝のが難しいレースなのである。
福永祐一騎手の日本ダービーの初制覇
2018年5月27日、第85回日本ダービーが行なわれる日がやって来た。
この日、福永騎手は単勝12.5倍で⑤人気のワグネリアンと共に日本ダービーに挑戦した。ワグネリアンは新馬戦から3連勝でG3東京スポーツ2歳Sを勝利するほどの実力馬だった。
だが、皐月賞のトライアルレースでもある弥生賞では2人気に推されたが2着と負けてしまった。続くG1皐月賞は1人気に推されたが7着と大敗を喫してしまった。
そしてダービー当日は、皐月賞の大敗と大外枠が嫌われ、⑤人気と評価を落としていた。この日のダービーは弥生賞でワグネリアンを破っていたダノンプレミアムが1人気に推されていた。
そして、記念すべき第85回日本ダービーのスタートが切った。
レースは皐月賞馬のエポカドーロがスローの展開で逃げる形になった。
福永騎手はスローの展開をみこし、道中は⑥⑦番手ぐらいという前の位置で競馬をしていた。
ワグネリアンの前には①人気のダノンプレミアムがいたが、福永騎手はこれをキッチリとマークする形をとった。
そして、スローの展開ということで、残り700mぐらいで福永騎手は少しづつポジションを上げていった。
残り600m地点では4番手までポジションをあげ、ダノンプレミアムと同じ位置で追走していた。
そして最後の直線では逃げる皐月賞馬のエポカドーロをダノンプレミアムと一緒に追いかける形になった。
東京の長い直線だったが、この3頭の位置はなかなか変わらず、残り200m地点ではこのまま終わるのかと思わせる流れだった。
しかし、残り200mを切るとワグネリアンが少しづつ差を縮め、そして残り10mぐらいでとうとうエポカドーロを抜かし、そのままゴールを過ぎていった。
福永祐一騎手の日本ダービーの初制覇の後
そして初ダービー制覇から2年後の2020年、第87回日本ダービー
福永騎手は後に無敗で3冠馬になったコントレイルとのコンビでダービーに挑んだ。
この日のコントレイルは単勝1.4倍の①人気という圧倒的な指示を受けていた。
そして翌年2021年、今度は④人気のシャフリヤールで日本ダービーに挑戦した。
この年のダービーは無敗で皐月賞を制したエフフォーリアが単勝1.7倍の圧倒的人気だった。
しかし、最後の直線ではエフフォーリアと叩き合いの末、福永騎手騎乗のシャフリアールがハナ差で勝利した。
福永騎手がまだダービーを勝利したことのない頃にこんな話がありました。
ある年にダービーを目指していた2頭の有力馬がいて、福永騎手がいざどちらの馬を選ぶのかという選択に迫られた時があった。
そして選んだのは前評判の低い方の馬だった。
結果は前評判の高かった福永騎手が選ばなかった馬がダービーを勝利した。この結果をうけ、周りの人からは選択ミスだと言われていた。
しかし、福永騎手が前評判の低い馬を選んだ理由が凄かった!
という想いで前評判の低い馬を選んでいたのです。
そんな人と人との絆を大事にする福永騎手だからこそ、現在ダービーを3勝もできる超一流騎手に成長できたのです。
福永祐一騎手の日本ダービー(東京優駿)制覇物語【まとめ】
福永騎手は若い頃から苦労し、デビューから22年でようやくダービーをワグネリアンで勝利しました。この苦労があって、現在日本ダービー3勝という歴史に残る騎手に成長できました。
この記事を作成していのは2022年の日本ダービー前ですが、今回は皐月賞馬のジオグリフで挑戦してきます。
ひょっとしたら日本ダービー3連覇という偉業を達成するかもしれません。